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大阪地方裁判所 昭和50年(行ウ)41号 判決

原告 木下浄

〈ほか七名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 戸谷茂樹

同 守井雄一郎

同 石川元也

同 酉井善一

同 斎藤浩

同 東垣内清

同 永岡昇司

同 海川道郎

同 宇賀神直

同 小林保夫

同 鈴木康隆

同 杉山彬

同 福山孔市良

被告 大阪市

右代表者大阪市長 大島靖

右訴訟代理人弁護士 俵正市

同 苅野年彦

主文

被告は、原告木下浄及び同玉石藤四郎に対し各金一六五万円、その余の原告らに対し各金一三五万円並びに右各金員に対する昭和五二年六月一一日から各支払ずみまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は原告木下浄及び同玉石藤四郎に対し各金三〇〇万円、その余の原告らに対し各金二五〇万円並びに右各金員に対する昭和五二年六月一一日から各支払ずみまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行の免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告らの経歴

(一) 原告木下浄、同岡野寛二、同玉石藤四郎、同金井清、同塚田敏行、同山下森はいずれも大阪市立の中学校に勤務する教諭であり、原告羽場正洋、同松吉徹は大阪市立の小学校に勤務する教諭であって、いずれも大阪市教職員組合(以下市教組という)の組合員であり、その経歴等は次のとおりである(以下の記述について学校名の「大阪市立」を省略する)。

(二) 原告木下は昭和二四年九月三〇日大阪市立中学校教員に採用され、昭和二四年四月一日から郊外羽曳野中学校、昭和二八年四月一日から船場中学校、昭和四〇年四月一日から阪南中学校に勤務し、その間市教組中央支部執行委員、市教組分会長等として積極的に組合活動を行なった。

(三) 原告岡野は昭和二八年四月一日大阪市立中学校教員に採用され、同日から夕陽丘中学校に勤務したが、昭和三五年四月一日希望により同和教育推進校の矢田中学校に転勤し、その間市教組分会委員長、同東南支部長等として組合活動を続けてきたが、特に同和教育には積極的に取り組んだ。

(四) 原告玉石は昭和二六年四月一日矢田村立中学校教員に採用され、同日から矢田中学校に勤務し、昭和三〇年四月三日大阪市立中学校教員に採用され、同日から加美中学校に勤務し、その間市教組加美中分会長等を歴任し、また、同和教育懇談会事務局長を勤め、自主的に同和教育に取り組んだ。

(五) 原告金井は昭和三七年四月一日大阪市立中学校教員に採用され、同日から矢田中学校に勤務し、その間市教組分会書記長、同分会委員長として組合活動を行なった。

(六) 原告羽場は昭和四一年四月一日大阪市立小学校教員に採用され、同日から長吉東小学校、昭和四三年四月一日から長吉南小学校に勤務し、昭和四二年から市教組東南支部青年部副部長、同分会委員、昭和四四年から市教組青年部常任委員として組合活動を行なった。

(七) 原告松吉は昭和四一年四月一日大阪市立小学校教員に採用され、同日から瓜破小学校に勤務し、その間市教組東南支部評議員、分会長、副分会長として組合活動を行なった。

(八) 原告塚田は昭和二六年四月一日大阪市立小学校教員に採用され、同日から淀川小学校、更に、大阪市立中学校教員に採用され、昭和三四年四月一日から木津中学校、昭和四〇年四月一日から加美中学校に勤務し、その間市教組木津中分会副分会長、加美中分会副分会長として組合活動を行なった。

(九) 原告山下は昭和二九年四月一五日大阪市立中学校教員に採用され、同日から西今里中学校、昭和三五年四月一日から文の里中学校に勤務し、その間市教組分会委員、分会長として組合活動を行なった。

2  矢田事件の発生と原告らに対する処分

(一) いわゆる矢田事件とは、昭和四四年三月一三日に行われた市教組東南支部の役員選挙に際して、書記次長に立候補した原告木下が同月初め頃葉書をもって別紙記載のあいさつ状(以下あいさつ状あるいは木下文書ともいう)を作成して組合員に配布し、また、原告木下、同金井を除くその余の原告らが他の者を含む一三名で、原告木下と支部長に立候補した安藤典男、書記長に立候補した手嶋仁の三名を推せんする推せん状(以下推せん状という)を作成して組合員に配布し、更に、原告金井が同月一一日頃市教組矢田中分会長としてあいさつ状と共に、安藤、手嶋両名のあいさつ状を一緒にコピーしたものを組合員に配布したところ、部落解放同盟大阪府連(以下解放同盟あるいは解同ともいう)の一部幹部が右各文書を差別文書であるといいがかりをつけ、原告らに対し監禁、強要を伴う暴力的糾弾を加え、大阪市教育委員会(以下市教委という)及び被告も右各文書を差別文書である旨表明し、原告らに対し右各文書が差別文書であることを認め、自己批判することを迫ったという事件である。

(二) 市教委は昭和四四年五月九日原告岡野に対し、更に同月二〇日原告木下及び同玉石に対し、いずれも「木下文書が差別文書であるとわかるよう研修せよ」との理由により大阪市教育研究所(以下教育研究所あるいは研究所ともいう)における長期研修を命じ(以下第一次研修命令ともいう)、勤務学校での授業を担当させないこととした。

そして、同年九月一日付をもって、原告木下に対し阪南中学校から淡路中学校へ、原告玉石に対し加美中学校から中島中学校へ、原告羽場に対し長吉南小学校から栄小学校へ、原告松吉に対し瓜破北小学校から矢田小学校へ、同月一六日付をもって、原告塚田に対し加美中学校から難波中学校へ、原告山下に対し文の里中学校から住吉中学校へと、それぞれ同和教育推進校へ勤務替する旨命じた(以下これらの命令を本件異動処分という)。

更に、市教委は原告木下、同岡野、同玉石及び同金井に対し昭和四六年二月一日付をもって「同和教育基本方針を正しく理解し差別を正しくとらえ、同和教育実践のあり方を身につけるため」との理由で、同日から昭和四七年一月三一日まで一年間教育研究所研究員としての研修を命じ、翌昭和四七年から昭和五二年まで毎年二月一日に右原告らに対し右と同様の研修を命じてきた。また、原告羽場、同松吉、同塚田及び同山下に対し昭和四六年五月一日付をもって同じ理由で同日から昭和四七年四月三〇日まで一年間教育研究所研究員としての研修を命じ、翌昭和四七年から昭和五一年まで毎年五月一日に右原告らに対し右と同様の研修を命じてきた(以下これらの研修命令を本件研修命令といい、本件異動処分及び本件研修命令を含めて本件各処分ともいう)。

《以下事実省略》

理由

一  請求原因1の事実、同2のうち、昭和四四年三月一三日に行われた市教組東南支部の役員選挙に際し、書記次長に立候補した原告木下が同月初め頃あいさつ状を作成して組合員に配布し、原告金井を除くその余の原告らが他の者を含む一三名で推せん状を作成して組合員に配布し、原告金井が原告ら主張のコピーを組合員に配布したこと、解同矢田支部と市教委があいさつ状を差別文書であると表明したことはいずれも当事者間に争いがない。

二  本件各処分に至る経緯について

1  矢田事件の発生

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

あいさつ状が組合員に配布された後、矢田中学校の教員の中にあいさつ状の内容が同和教育あるいは部落解放運動に水をさす文章であると考えてこれを問題視する者が現れ、解同矢田支部は昭和四四年三月一六日頃あいさつ状と推せん状を入手して、検討した結果、その文面が差別であるとしてこれに激しく反発し、解同矢田支部長戸田政義(以下戸田支部長という)、同執行委員村越末男らは「差別者・木下浄一派を糾弾する」と題する解同矢田支部名義の糾弾文書を作成した。右糾弾文書には、あいさつ状に表れている思想が部落解放運動に反対し、人民解放の闘いに水をさし、これを非難中傷するものであり、この運動を分裂させて真の敵を不明にし、ひいては差別を温存助長させる差別者の思想であるとし、このような差別思想及び差別者に挑発の機会を与えた大阪府と被告の教育行政を糾弾する、市教組もこのような遅れた思想を克服することが緊急な課題である旨記載されており、解同矢田支部は原告木下及び推せん人のみならず市教委、市教組に対しても責任を追求する態度を示した。

そして、解同矢田支部は、まず原告木下、同岡野、山本和男の三名から事実確認することを決め、解同矢田支部書記次長河内稔は同月一七日電話で原告岡野に対し、原告木下と山本和男と共に同月一八日矢田市民館に来てもらいたいと伝えた。解同矢田支部戸田支部長、副支部長山田政信、同川本竜子、書記次長、執行委員らは、同月一八日午後四時三〇分頃から大阪市東住吉区矢田矢田部町本通り七丁目六番地の矢田市民館二階第三会議室において集会を開き、連絡を受けて出席した原告木下、同岡野、山本和男に前記糾弾文書を手渡し、あいさつ状の内容には極めて問題があることを厳しく指摘した。その結果、原告木下ら三名は、自分たちの行動が軽卒であったこと、あいさつ状が差別文書であることを認め、更に解同矢田支部側からその対策を採ることを迫られ、解同矢田支部が同月二四日午後五時から矢田市民館で開く糾弾集会にあいさつ状、推せん状の作成者、推せん人ら関係者全員が参加し、自己批判書を作成して決意表明を行うこと、あいさつ状、推せん状をできる限り回収することを約束するに至り、同日午後七時過ぎ散会した。

山本和男は右約束を実行することを決意していたが、原告木下及び同岡野は右の約束をさせられたことに十分納得がいかず、原告岡野は最終的にどのような態度を採るべきかについて決心がつかない状態であった。

市教組の矢田中学校分会においては、同分会委員会が同月二二日正午頃から同中学校職員室で、更に分会委員会と同和委員会の合同委員会が同日午後三時から同校校長室で開かれ、委員全員が学習のため同月二四日の糾弾集会に出席することを確認したが、原告木下、推せん人のうち水田、山下、手嶋を除くその余の関係者は協議の結果、あいさつ状は差別文書とは思われない、原告木下は差別をするような人ではない、同月二四日には矢田市民館に行ってその旨説明しよう、山本和男が自己批判することは止めないなどとする意見が大勢を占めた。

原告木下は、同月二四日朝、市教組大村委員長の要望により市教組本部に赴き、同委員長から市教組の「部落解放同盟矢田支部の糾弾についての市教組執行委員会の責任と方針」と題する書面を見せられたが、同書面があいさつ状の差別性を認め、解同矢田支部の糾弾を全面的に正しいとする内容であったため、市教組本部が組合員の立場を守るという姿勢ではなく、そうであるならば同月二四日の集会も先きの一八日の結論と変らないことが予測されること、問題の発端は市教組の役員選挙に関するもので市教組内部の問題であるなどの理由で、同月二四日の糾弾集会には出席しないことを表明した。

原告岡野は、同月一八日以降あいさつ状、推せん状の回収、決意表明書の作成などを続けていたが、同月二四日午後四時頃原告木下が当日の集会に出席しないことを知り、自由な話合いならよいが糾弾では困るという理由などで不参加の意思を示し、他の推せん人は、ほぼ全員当日矢田駅に集まったが、原告木下が出席しないことを知って集会に欠席することを決め、原告玉石がその旨解同矢田支部に連絡した。

右三月二四日の糾弾集会には、あいさつ状の推せん人として山本和男のみが出席し、市教組側約一五〇名、解同側約二〇名の面前において、自己批判書を配布して説明し、糾弾を受けた。

市教組は、後記2のとおり、解同側に、原告木下ら関係者らが解同との話合いに応ずるよう説得することを約束したが、これらはいずれも失敗に終ったので、解同矢田支部は以後独自の糾弾活動を行うこととし、同月八日戸田支部長らが矢田中学校に赴き、原告岡野、同金井に対し今後は解同独自で糾弾をする旨宣言したうえ、今まで集会になぜ出席しなかったかなどと質問したが、これに対し原告岡野は、糾弾ということでは納得できない、対等平等な話合いなら応ずる、関係者は一一名だから一一名対一一名にしてもらいたい、私は窓口になっていないので皆と相談したい旨答えた。戸田支部長はこれを了挙し、話合いの日時、場所を皆と相談して設定して来ること、その結果どのような事態になっても当日中に矢田市民館に直接来て連絡してもらいたいと要望し、原告岡野もこれを受け入れた。

そこで、原告岡野は関係者と連絡をとって相談した結果、原告玉石が窓口であるのに原告岡野が相手方と交渉して取り決めをしては困る、対等の話合いならまず糾弾文書を撤回してからでないと応じられないという結論になり、同日午後一一時頃電話で戸田支部長に対し、この話は玉石が窓口であるので玉石と連絡をとってほしい旨返事をし、戸田支部長から、とにかく直接市民館に来て話をしたらどうかと言われたが、体の調子が悪いので今日は行けない旨答えて一方的に電話を切った。

戸田支部長、解同矢田支部書記長泉海節一は他の支部員と共に同月九日午前九時三〇分頃矢田中学校職員室に赴き、原告岡野、同金井に対し矢田市民館に来るよう執ように要求したが応じなかったので、両原告を実力で職員室から連れ出し、自動車に乗せて矢田市民館まで連行し、同市民館二階会議室に連れ込み、両原告を正面に座らせ、机を叩いたり、大声でどなりつけたりしながら差別者として自己批判することを要求し、更に、同日午後二時三〇分頃から三階大集会室に移動して、両原告に対する糾弾を続けた。

また、泉海節一は、他の解同支部員と共に原告玉石を呼ぶことを決め、同日午後三時三〇分頃加美中学校の校長室において同原告と会い、矢田市民館に原告岡野、同金井も来ているから来てほしい旨述べたところ、同原告が応じなかったため、同原告を実力で校長室から連れ出し、自動車に乗せて矢田市民館三階大集会室まで連行し、同日午後四時頃から同所において同原告に対しなぜ素直に来なかったのかなどと詰問したが、同原告が黙していたためしだいに激昂し、原告岡野、同金井、同玉石の三名に対し大声で激しい口調で追求し、その座っていた椅子をけとばし、起立、着席を繰返えさせ、暴力を振いかねない気勢を示すなど、非常に緊迫した状況下で糾弾が行われ、翌一〇日午前二時五〇分に至って散会した。

右原告ら三名は同月一九日大阪地方検察庁に対し右糾弾行為につき、戸田支部長、泉海節一ら解同支部役員四名を告訴した結果、大阪地方検察庁は戸田、泉海の両名を監禁罪で公訴提起した。これがいわゆる矢田事件である。

その後も、解同矢田支部による追求は続けられ、同支部青年部員は、同月二六日野球の練習指導をしていた原告岡野を近くの矢田小学校講堂に連れて行き、部落子供会のメンバー三〇名余りと共に同日午後四時から八時頃までの間あいさつ状について質問し、右青年部員は同月二九日も右子供たちをせん動したり、同原告を後からこずいたり、足をけったりしてあいさつ状の差別性を認めるよう迫っており、更に、同年五月二日には矢田中学校において生徒をせん動し、その面前で同原告をつるし上げ朝礼台に引きずり上げたりして暴力的な糾弾を行なった。同原告は五月二日の件などについて右青年部員一名を暴行傷害等の罪で告訴した。

解同の中においてもあいさつ状をめぐる評価は必ずしも一致せず、解同堺支部は昭和四四年九月、解同蛇草支部は第三回支部大会において、それぞれあいさつ状は差別文書でないと表明し、解同矢田支部員山田政信も右と同旨の見解を表明し、解同本部がこれに対して権利停止や険名処分をもって臨んだため、解同はあいさつ状の問題をきっかけとして組織の分裂が一層進行することとなった。

2  市教組の対応

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

市教組は、昭和四四年三月二四日「部落解放同盟矢田支部の糾弾についての市教組執行委員会の責任と方針」と題する文書を取りまとめ、あいさつ状を差別文書であるとし、解同矢田支部の糾弾を全面的に正しいものとする態度を表明すると共に、あいさつ状は市教組東南支部の役員選挙に関する書面であるから市教組にも責任があるとして、解同側に前記三月二四日の糾弾集会に欠席した関係者に対して解同との話合いに応ずるよう説得することを約束した。そして、同年四月二日午後三時から関係者を含め、市教組と解同との話合いを持つことを申し入れたところ、解同側がこれに同意したので、市教組本部、東南支部の各執行委員が手分けして関係者の家庭を訪問し、あるいは集会を持つなどして関係者に対して四月二日の集会に出席するよう種々説得した結果、森弘、水田秀起、清水義則の三名はこれに同意したが、その他の者はあいさつ状は差別文書であるとは思われない、原告木下が差別をするはずがないという考えに終始し、集会への出席を拒否した。また、市教組矢田中学分会も原告岡野に対し四月二日の集会に出席するよう要請したが、拒否された。

右市教組と解同との集会は、右四月二日午後三時過ぎから矢田市民館において解同側から約三〇名、市教組側から組合員約一五〇名が出席して開かれ、当日出席を約束していた水田秀起は欠席したが自己批判書を提出し、森弘と清水義則は出席して自己批判し、両名に対する糾弾が行われた後、あいさつ状を矢田中学分会員に配布した原告金井が新しく糾弾の対象とされ、同日午後五時過ぎから午後一〇時四五分頃までの間、戸田支部長、泉海節一、が同原告に対して、あいさつ状をどう考えるか、何故に配布したか、分会員として責任を感じているかなどと追及したところ、同原告はあいさつ状の表現が不十分であることは認めるが、差別文書ではないと主張したため、市教組は解同に対し、再度関係者に対し説得をし、同月七日に再び同様の集会を持つことを申し入れ、解同矢田支部の同意を得たので、既に自己批判をした者を除き、原告ら八名と、田淵忠良、松山満夫、手嶋絢子の関係者一一名に対し同月七日の集会へ出席することを要請したが、全員がこれを拒否したので、同月七日解同に対し原告らに対する説得はこれ以上不可能である旨を伝えた。

市教組執行委員会は、同月一二日原告ら八名、松山満夫、田淵忠良及び手嶋絢子の一一名に対し、同人らが市教組の決議とそれに基づく指導に従わなかったことを理由に組合員の権利を停止する旨決定した。しかし、市教組の前記のような見解、権利停止決定に反対する教職員組合、執行委員会も続出するに至り、大阪市高教組執行委員会は昭和四四年五月二〇日、大阪市特殊学校教組執行委員会は同月二六日、堺教組執行委員会は同年六月一一日に、それぞれあいさつ状は差別文書でないとの見解を明らかにし、市教組青年部大会、大教組青年部大会も右と同旨の見解を表明し、その外にも右と同旨の見解を明らかにする教職員組合は後をたたず、右権利停止決定は昭和四六年一月一九日の大会で解除された。

3  日本共産党大阪府委員会の支援

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

右委員会は、矢田事件発生後原告木下らを全面的に支持する態度を明らかにし、日本共産党大阪市議会議員団は、同年四月九日夜市教委の柏原教育長に面談して解同矢田支部の糾弾に対する市教委の見解をただし、その行政責任を追求した。他方、解同から同月二二日右委員会に対し部落差別についての見解を問う申入れ書を差し出されたので、同月二五日右委員会はこれに対し文書をもって回答し、解同と右委員会の対立の様相は顕著となってきた。また、右委員会は同年六月一八日矢田市民館で行われる予定の原告木下、同岡野、同金井に対する特別研修を問題視し、共産党市議団が市教委に対し、職務命令で研修をさせる根拠は何か、会場及びその往復の路上の身体の安全や行動の自由について特別の対策を採っているかなどを追求し、このことを同月一九日付の機関紙大阪民主新報で詳しく報道した。これに対し、解同大阪府連は同月二一日岸上繁雄委員長名で大阪市議会議長宛に要請書を提出し、共産党市議団は解同を暴力団視し、暴力行為の起こるのが当然であるかのようにひぼうしているが、これは差別を助長し、基本的人権にかかわる問題であるから、速やかに市議会を開会し、六月二四日までに文書をもってこの緊急かつ重要な問題の処理について回答するよう要請した。また、八尾市議会は同年七月七日共産党議員斉藤俊一が同年六月二八日の同市議会本会議の代表質問で差別発言をしたとの理由で同議員を険名処分にした。

4  市教委の対応

《証拠省略》によれば、次の事実が認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。

(一)  市教委の同和教育指導室長森田長一郎(昭和四四年三月三一日以前は同和担当主幹)は昭和四四年三月二〇日頃あいさつ状が配布されたことを、同月二四日にはその詳しい内容を了知し、市教委においてあいさつ状を検討した結果、柏原教育長はじめ森田室長、その他の担当職員らは、あいさつ状は差別文書であると考えたが、当初は市教組内部の問題であるからそこで円満に解決することを期待していた。また、矢田中学校や加美中学校などの校長、教頭、更に同僚の教員は、個人的な立場から原告らが解同矢田支部と円満に話し合い、解同矢田支部の意向にそって問題を解決することがよいと考え、原告らに対しそのように説得していた。

前記森田室長と鶯原係長は、前記四月九日の糾弾集会に同日午後九時四〇分頃から出席したが、泉海節一が森田室長に、木下あいさつ状は差別文書ではないか、市教委はどう思うか、こいつらはもの言わへんのだがどうするつもりか、こういう教師は差別者や、自己批判もしよらん、こういう同和教育に対して意識の低い先生のいることは教育委員会の責任じゃ、どうするかなどとどなり、マイクロホンで机を叩きながら行政の責任を追求したのに対し、同室長は、あいさつ状が同和教育を阻害するような感じがするし、差別文書である旨答え、原告岡野ら三名を別室に呼んで説得したが、同原告らはこれに応じなかった。

市教委は、あいさつ状の差別性の評価をめぐって紛争が生じ、事態がしだいに深刻化するに従い、あいさつ状に対する態度を明確にする必要があると考え、昭和四四年五月九日付で教委(全)第三〇号「同和教育の推進について」と題する通達を、続いて、同年六月七日付で教委(全)第四五号「同和教育の推進について(その2)」と題する通達を出した。前者の通達には、「あいさつ状の文面から、部落解放の中心的役割を果す同和教育の推進を阻害する考え方が明らかであり、同和教育を推進すべき教員の基本的な姿勢ならびに同和教育の本質の理解に問題があり、差別文書と考える。現代社会は矛盾、偏見、差別がいたるところに存在し、意識すると否とにかかわらず、差別者の立場におかれる可能性をはらんでいる。こうした中で自己の立場を正すためにはすすんで差別の本質および同和教育について話し合い、正しい理解をもつことが肝要である。この差別文書に関しては告訴という事態が起こり、現場の学校教育に困難な事態を生ぜしめている。このことはまことに遺憾であり、一日も早く子どもの幸福のために教育の正常化を念願している」と、また、後者の通達には、「このたびの告訴に関し当時の参会者は事態の経過と差別のきびしさおよびし烈な部落解放の願いを正しくうけとめ権利の侵害と認めていない。重要なことはこの事態が差別についての無理解と社会にみちている差別と偏見に結びつき遺憾ながら差別の温存ならびに再生産につながっている事実である。同和問題解決の正しい理解と姿勢のない権利の主張や心ない言動が、たとえ主観的に意図するところが何であろうとも今の社会においてともすると客観的に差別につながることに留意しなければなりません。差別事件が起きた場合には、差別からの解放が国民的課題であることに思いをいたし、とくに慎重な配慮を加えて同和教育の推進に格段のご努力を願いたい」と、それぞれ記載されている。

また、被告は、同年六月に大阪市政だより〔同和問題特集〕を発行し、矢田事件の経過を載せて、あいさつ状が何故差別なのかについて詳しく述べている。

(二)  右のような経過から、市教委は、現場の学校において同和教育の理解を得ることは困難であり、また、現場におけるホットな関係を鎮めるためにも学校を離れて研修した方がより適切であると考え、大阪市同和教育基本方針に則して同和問題を正しく理解し、部落解放についての強い信念と同和教育の推進に対する意欲を持つことを期待して、同年五月九日原告岡野に対して、同月二〇日原告木下及び同玉石に対して、それぞれ同年八月三一日まで大阪市教育研究所において研修を命ずるとの第一次研修命令を発令することとなり、右研修においては、数名の指導主事、補導主事が右原告ら三名の指導を担当し、テーマが与えられ、最後にレポートを提出するという形式が採られ、そのテーマの中には、「同和教育を踏まえた学級担任としてどうあるべきか」「教師自らが内蔵する差別性について克服するにはどうしたらよいか」という事項も含まれていたが、右原告ら三名は与えられたテーマについてほぼ全部につきレポートを提出した。なお、市教委は右原告ら三名を除くその余の原告らに対しても大阪市中央公会堂においてあいさつ状について意見聴取をしたり、討議をした。

しかしながら、市教委は、右研修の効果が上っていないと考えて、昭和四四年九月一日付をもって原告木下、同玉石、同羽場及び同松吉を、同月一六日付をもって原告塚田及び同山下をいずれも同和教育推進校に勤務替えを命ずる本件異動処分をし、その処分事由の要旨は、部落差別の実態に学びながら同和教育に取り組んでもらうため、同和教育推進校に勤務を命ずるというものであった。

同和教育推進校に配転後の原告ら六名は、市教委の右配転の意図に反し、配転先の同和地区の父母及び児童生徒との信頼関係もなく、とかくその間に紛争が生じがちであり、配転校における研修効果も上っておらず、このまま研修を続行しても意味がないばかりか、かえって、教職員の間にあつれきが生じ、原告らを同和教育推進校にそのまま継続して勤務させることは困難な状況が出てきた。

そこで、市教委は昭和四六年二月一日と同年五月一日の二回に分けて教育研究所研究員として研修を命ずるに至り、その発令事由説明書によれば、大阪市同和教育基本方針を正しく理解し、差別を正しくとらえ、同和教育実践のあり方を身につけるためというものであった。

原告らは、研究所に対して、研究員としての辞令を発令した合理的理由を明らかにせよと申し出たが、研究所側が長期研修はあくまで自己の教育実践に基づいて問題を設定し、自らの努力で解明し、最終的には自己の教育実践に役立てるものであるから、自分で問題を発見し解決するように述べ、具体的理由を明らかにしなかったため、研修テーマの提出を一切拒否し、レポートも提出しなかったところ、市教委は、原告らが研修過程の報告をせず、研修レポートの提出等もしないので研修効果を全く認めることができないとして昭和五二年四月三〇日まで長期間にわたり研修命令を更新してきたものである。

三  あいさつ状に対する評価の対立

《証拠省略》によれば、戦後の部落解放運動は、昭和二一年部落解放全国委員会によって再建され、右委員会は昭和三〇年に部落解放同盟と改称されたこと、以後部落解放運動は差別行政反対闘争を中心に展開し、昭和三五年には、部落解放運動の基本的な方針を綱領として発表し、統一的な運動を進めた。ところが、昭和四〇年に行われた参議院議員選挙において政党支持の自由を侵すような方針を打ち出すに及んで解同の組織が大きくゆらぎ、同年八月に出された同対審答申の評価をめぐって組織分裂に拍車がかかり、昭和四〇年の第二〇回大会で解同の中から政党支持の自由を主張したり、同対審答申に対して一定の批判的見解を示した組織や個人が除名により排除され、解同の分裂が表面化するに至ったことが認められ、更に、昭和四四年三月のあいさつ状問題が発生したことをきっかけに解同の分裂が一層進行したことは前記認定したとおりである。

しかし、《証拠省略》によれば、原告木下があいさつ状を作成配布したのは、市教組東南支部の役員選挙に際して組合員に労働条件の改善を訴え、あるいは市教委の教育行政を批判するためであり、解同内部における右のような対立については一切念頭になく、まして、その組織分裂に一石を投ずる意図を有しておらず、また、同和教育に対して水をさし、これに反対する意図もなかったことが認められ、また、あいさつ状を当初差別文書であると理解した解同矢田支部役員もある一定の思想に基づいて意図的に反対思想を攻撃する意図を有していたことを認めるに足りる適切な証拠はない。

そして、その後、あいさつ状の評価をめぐって解同においても、教職員組合において相対立するに二つの見解があらわれ、更に日本共産党が右の問題に参加するに至り、あいさつ状問題は政治問題にも発展するに至ったことは、前記二の本件各処分に至る経緯1ないし3において認定した事実を総合すると容易に認められるところである。

およそ、ある文書が差別文書か否かを決定するためには、何よりも差別ないし差別文書なる言葉の定義を明らかにする必要があることはいうまでもないところであるが、その点はさておき、被告及び市教委は、同和教育の推進あるいは同和問題の解決を阻害するおそれのある文言を記載してあるものが差別文書であると主張するが、このような定義は極めて広範囲のものを包含し、どのような文言をもって、「阻害するおそれがある」ものととらえるか明確に決定することが困難であるといわなければならない。同和教育の推進あるいは同和問題の解決を進めるについては、さまざまな意見や理論的対立の存在することが考えられるが、特定の思想なり運動方針に固執する者が右のような差別文書の定義を採用するときは、差別文書の解釈、運用の仕方如何によって容易に反対の意見を封ずる手段として利用され、同和教育の推進あるいは同和問題の解決に対する自由な批判、討論が不活発となり、右問題に対する開かれた、自由な雰囲気がなくなって、ついには、一定の考えや思想が独善に落ち込み、反対の理論ないし思想の存在、更には、その考えや思想に同調する人々の存在をも許さないという結果に陥ることになる(本件においても、後記認定のとおり、解同は市教委に対し原告ら八名の免職を要求するに至った)。

別紙あいさつ状の記載によれば、教育行政を進める市教委にとって、そこに表わされている考え方は一般的に好ましいものとは受取らないことは明らかであろう。そこには、管理される側の管理する側に対する抜きがたい不満が多々述べられているからである。

また、市教委と原告らとの間においては、同和教育のとらえ方にも相違が見られるのであって、市教委は同和問題を緊急問題ととらえており、その結果、教員に対しその勤務条件を犠牲にしても取り組むべきことを要求し、勤務条件を持ち出してこれを拒否することは教員の義務違反であると、とらえる傾向が見られ、これに対し、原告らは、学校における同和教育は極めて重要なものであるとしながらも一般の教育問題であり、緊急問題としてはとらえておらず、その結果、同和教育の推進のためであっても、法定の勤務条件を無視して勤務外の仕事を要求され、勤務条件が圧迫を受けるようになった場合にはその改善を市教委に要求することも当然許されるという立場に立っているのであるが、市教委が同和教育の推進は緊急問題であるとして、教員に対しその勤務条件を犠牲にして勤務外の同和教育に参加することを当然に要求しうるとすることは失当であるといわなければならない。

以上述べたように、あいさつ状の差別性についての判断及び同和教育の推進に関する認識、評価について、原告らと被告、市教委との間に対立が存することはもとより、種々の見解が存在するのであって、差別文書の定義づけをすることは困難であるというべきであるが、少くとも、差別文書についての被告の考え方が妥当でないことは既に判断したとおりであって、あいさつ状を差別文書と断定することもまた困難であるといわざるを得ない。まして、市教委が右の問題について改善を要求する教員に対し、その要求行為自体から直ちに同和教育あるいは同和問題の理解に欠け、同和教育の推進に対する意欲を持っていないとしてその教員に対しそのための研修を行うことは、自己の責務を省みず、教員に一方的に犠牲を要求することとなり、不当であるというべきである。

しかし、解同矢田支部があいさつ状の文言が差別であるとして、これに激しく反発し、原告らをもって同和教育を担当する教員として適当ではないと考えたことは前記認定のとおりであり、原告らもあいさつ状問題が大きな政治問題に発展しない段階においては、あいさつ状が与えた影響を直視して、自分らの意図がそこになかったこと、言い回しに配慮が足りなかったことを述べて同和地区住民に対して反省の意を示してもよかったとも考えられないでもない。何となれば、差別文書と感じるかどうかは何よりもまず同和地区住民自身の受取り方を尊重する必要があり、そのような配慮をすることはまさに人間尊重の基本と考えられるからである。したがって、原告らにそのような配慮が足りなかったことも否めないように思われる。まして、組合活動であるから他からの批判は許されないという考えは採り得ず、原告らにそのような配慮があれば大きな紛争に発展しなかったとも考えられるのである。

四  本件各処分の動機、目的及び本件各処分の違法性

1  本件各処分の動機、目的

原告木下があいさつ状を作成配布したことが発端となり、原告八名があいさつ状を差別文書であるとは認めず、紛争がしだいに大きくなった経緯、市教委が原告木下、同岡野及び玉石に対し第一次研修命令を発し、続いて本件異動処分、更には本件研修命令を発令したこと、第一次研修命令の発令事由は、右原告ら三名が大阪市同和教育基本方針に則して同和問題を正しく理解し、部落解放についての強い信念と同和教育の推進に対する意欲を持つことを期待したためであること、本件異動処分の発令事由の要旨は、部落差別の実態に学びながら同和教育に取り組んでもらうためであること、本件研修命令の発令事由は、大阪市同和教育基本方針を正しく理解し、差別を正しくとらえ、同和教育実践のあり方を身につけるためであることは、いずれも前記二において認定したとおりである。なお、《証拠省略》によれば、第一次研修命令は原告木下、同岡野及び同玉石の三名に発令したけれども、その余の原告らについて研修の必要性を認めなかったわけではなく、右原告ら三名の研修の推移を見てから処遇を決めることとし、右原告ら三名が市教委の意図を分ってもらえば、その余の原告らも自然と了解するであろうと考えていたことが認められる。

以上の事実によれば、市教委は原告らに対し同和問題を正しく理解し、部落解放についての強い信念と同和教育の推進に対する意欲を持つことを期待して第一次研修命令を発し、その研修効果が上らなかったために本件異動処分を発令して部落差別の実態に学ぶことによりその目的を達しようと意図したが、その結果、所期の目的を達成できなかったばかりか、現場の同和教育推進校に混乱をもたらしたことは前記のとおりであって、市教委は、原告らが部落差別の実態に関する認識不足から同和教育の推進に対する意欲に欠けたものと判断したことがうかがわれるけれども、そのような判断が妥当でなく、現場の学校に混乱をもたらし、放置しえない状況になることは、同和教育推進校の矢田中学校に勤務している原告岡野及び同金井のことを考慮すれば容易に予測しうるところであって、市教委は本件異動処分を行うにつき深い教育的配慮をめぐらしたとも考えられず、かえって、極めて安易な態度が認められるのであって、市教委が果して発令事由のとおりに考えて本件異動処分を行なったのか強い疑問が生ずるのである。

ところで、《証拠省略》によれば、第一次研修命令の必要性を感じたのは、あいさつ状に対する原告らの態度、即ち、原告らがあくまでもあいさつ状を差別文書と認めず、自己批判をしなかったことから、原告らが同和問題を正しく理解しておらず、部落解放について強い信念と同和教育の推進に対する意欲を欠いていると判断したこと、市教委は推せん状に名を連ねた人々のうち、解同矢田支部の要求に応じてあいさつ状を差別文書と認めて自己批判をした山本和男、森弘、清水義則、水田秀起の四名を初めから問題視しておらず、これらの人人を研修の対象から外していること、《証拠省略》によれば、原告岡野と同金井は市教委が本格的に同和教育に取り組む以前から当時教育困難校といわれた矢田中学校に希望して転勤し、自主的に同和教育に取り組み、矢田中学校のみならず、大阪市内でも同和教育については最も熱心な教員であったにもかかわらず、原告岡野は第一次研修命令の対象となっており、原告金井も問題視され、将来の処分の対象者とされていたことがそれぞれ認められ、これらの諸事情、前記二において認定した本件各処分に至る経緯、更に、《証拠省略》によれば、市教委が第一次研修命令を発するに至った最大の動機は原告らがあくまであいさつ状を差別文書であると認めなかったことにあり、その研修目的は研修を通じその態度を改めさせることにあったと認めるのが相当であ(る。)《証拠判断省略》

《証拠省略》によれば、推せん状に名を連ねた手嶋絢子は当時妊娠していたため、田淵忠良は事務職員であり、その方の研修を受けさせれば足りると考えたため、松山満夫は昭和四四年九月一日長橋小学校へ転勤し、同年年末には大阪市を退職しているため本件各処分の対象とならなかったものであり、それぞれ特別の理由があったこと、第一次研修終了後、原告岡野と同金井に対しては矢田中学校において研修を行うこととなったが、矢田中学校の坂井田教頭は同年九月一日原告両名に対し、木下文書が差別文書と理解できるよう研修すること、自己批判をすること、解同矢田支部と積極的に話し合うこと、解同矢田支部役員に対する告訴を取り下げること、部落差別の実態と部落解放運動に学びつつ、自己の意識変革を速やかになし遂げるために研修せよと指示し、右両原告の指導を担当していた升田補導主事も坂井田教頭の右指示を全面的に了承し、これを補足して右両原告を右指示に従って研修するよう説得したことが認められること、《証拠省略》によれば、昭和四五年一一月五日市教委と矢田教育共闘会議の交渉が矢田解放会館(もとの矢田市民館)において開かれ、共闘会議側が原告木下、同玉石についてどのような指導をしているのかと問いたゞしたのに対し、市教委側は、課題を与えてそれを中心に研修させる、市教委に呼んで研修指導する、勤務や分掌校務を厳重にさせると答え、更に共闘会議側が、市教委は原告らが怖く、対決したくないから呼び出しても何もできない、彼らの意識変革をなし遂げる自信があるかと質問したのに対し、市教委は「従来の反省の上に立ち、同和教育を阻害しない適正な場所で、意識変革につながる最も効果の上がる内容の研修を精力的にやってゆきたい。期間は当分の間ということで考えてゆきたい」と答えていることが認められ、もともと、解同矢田支部は、原告らがあいさつ状を差別文書と認めず、自己批判しないことに立腹して原告らの右の考え方を変えようとして糾弾を繰り返してきたことは前記のとおりであるから、共闘会議側が述べている研修とか、意識変革ということは、原告らがあいさつ状の差別性を認めることであり、そのための研修であることは容易に推認することができ、市教委は意識変革につながる最も効果の上がる内容の研修をやってゆきたいと答えて共闘会議側の要求に何ら反論することなく、そのまま受入れようとしている態度が認められること、第一次研修命令、本件異動処分及び本件研修命令はもともと矢田事件に端を発した結果、前の処分の効果が認められないとして次ぎ次ぎに発せられたといういわば一連の処分であることは既に判断したところから明らかであり、その後原告らには新たな処分事由となるような行為を認めるに足りる証拠もなく、前記認定の第一次研修命令の動機と目的はその後において変化する余地がほとんどないこと、右の諸事情と《証拠省略》によれば、本件各処分の動機と目的も第一次研修命令のそれと特に変化はないものと認めるのが相当であ(る。)《証拠判断省略》

ところで、あいさつ状問題が前記のように政治問題にまで発展した後において、あいさつ状の差別性について意見を述べることはその政治問題にまき込まれる危険性があることを予想しなければならず、まして、原告らが一度態度を明らかにした以上、右状況下においてあいさつ状の差別性の評価についてこれを変更することは自己の政治的信条を変更することを表明したとも受取られるおそれもあり、原告らが態度を変えることは極めて困難な状況になっているのであるから、右のような状況の中であいさつ状の差別性を認めるか否かによって、大阪市同和教育基本方針の正しい理解が不足しているとか、同和問題に対する信念、意欲に欠けていると評価することは市教委の立場に立ってももはや意味を持たない状況にあり、更に、《証拠省略》によれば、市教委も昭和四五年には原告らに対する研修も効果が上らないことを承知していたことが認められ、市教委は何の目的で原告らに対する研修を続けていたのか、極めて深い疑問が生ずるのである。

《証拠省略》によれば、解同大阪府連書記長上田卓三は昭和四四年四月九日に開かれた糾弾集会に途中から出席し、翌一〇日午前二時頃、自己批判しない者に対しては解同大阪府連の立場で解同矢田支部と共に糾弾を続けていく、こういう差別教師は首切りを市教委に要求する旨あいさつをしたことが認められ、《証拠省略》によれば、昭和四五年一一月五日の前記市教委と矢田教育共闘会議の交渉が行われた際、前記認定事実の外に、共闘側は、差別教師が自からの差別を自覚反省することなく戸田、中田を告訴した結果、もし有罪となれば、差別者が首を切ったことになる、そのようなことになれば差別者は首を切られても仕方がない旨述べて、暗に市教委に対し原告らを不適格者として免職するように要求したことが認められる。

以上の事実を総合すると、市教委は処分の効果が上らないことを承知しながら、解同の要求に動かされて、免職こそさせなかったものの本件各処分を行なったものと推認せざるを得ず、市教委の処分事由書あるいは発令事由書に記載されている事由は単に形式を整えるためのものに過ぎず、真の目的は原告らの意識を変革させてあいさつ状を差別文書と認めることにあったことは既に認定したとおりである。

2  本件各処分の違法性

市教委の行う市立学校教職員に対する人事異動は、教育行政の一環として教育基本法の精神に基づき、教育目的を遂行するために必要な諸条件の整備確立を目標とし、広い視野に立って教職員の構成の適正化、各学校における教育効果の一層の増進をはかるべきもので、そのため市教委が人事異動を行うにつき一定の裁量権を有することは被告主張のとおりであるけれども、一方、教職員は法律の諸規定によりその身分が保障されているところから、市教委は教職員の身分を尊重しつつ、教職員の経歴、前任校及び転任校の人的、地理的、物的あるいは社会的状況、当該教職員の個人的な諸事情をも含めて総合的な判断に立って人事権を行使すべきものであって、それには一定の制約が課されているものというべく、当該人事異動について右のような本来的な目的を欠き、教職員の思想、信条の自由、内心の自由を侵し、市教組との取決めを合理的理由がなく無視し、更に一定の団体の要求に動かされた恣意的な行使は裁量の範囲を著しく逸脱するものとして、裁量権の濫用として違法と解すべきである。

また、市教委は、市立学校教職員の水準を維持向上させるために研修を行う権限を有し、市教委の行う命令研修は直ちに違法と解すべきではないけれども、研修の本来的な性質を考慮すると、命令研修は本来教職員が通常修得しておかなければならない児童生徒の心理、学習展開の方法などに関する基本的な教育技術、知識が欠けている場合に行われるべきものであり、したがって、そのような命令研修は、研修を受ける教職員の意思に反していることから直ちに違法とはいえないものというべきである。しかし、命令研修を行うについても一定の制約が課せられていることはいうまでもなく、命令研修の本来の範囲を逸脱することはもとより、教職員の権利を不当に侵害し、研修の本質を著しく逸脱し、裁量権を濫用したと認められる場合には、当該研修命令は違法と解すべきである。

ところで、本件各処分には、処分あるいは発令事由書が存するけれども、それはあくまでも形式を整えるものに過ぎず、真の目的はあいさつ状を差別文書と認めることにあったことは既に判断したとおりであり、人事異動や命令研修の本来的目的も存せず、解同矢田支部の要求に応じて行なった恣意的なもので、それは教育の自由を侵し公教育の中立性を侵害する不当な支配に屈したものというべきであって、更にあいさつ状問題が政治問題にも発展してからは原告らの思想、信条の自由、内心の自由を侵すものであり、教育の本質に反し、裁量の範囲を著しく逸脱した裁量権の濫用というべきであって、本件各処分が違法であることは明らかである。

市教委の原告らに対する本件各処分は昭和四四年九月にはじまり昭和五二年四月三〇日まで続いたものであって、その執ようなことは異常であるといわなければならない。市教委は研修の効果も上らないことを知りながら、そのような研修を六年間余りも継続しているが、もし被告が主張するように本件研修命令が正当なものであるならば、原告らの義務違反は極めて重大であるから、それに対して市教委は研修を打ち切るなり、免職等の強い処分をもって原告らに臨むべきであって、市教委がそのような処分を採れなかったことからも、本件各処分の違法性は明らかである。

以上の事実を総合して判断すると、市教委は本件各処分が違法であることを認識していたと推認することができるというべきであって、少くともその違法であることを認識しえたものというべく、市教委は本件各処分をするについて少くとも過失があるというべきである。

五  被告の賠償義務

本件各処分は市教委がなしたものであることは既に述べたとおりであり、請求原因6のうち、被告が本件各処分たる事務の帰属する公共団体であることは当事者間に争いがなく、本件各処分が公権力の行使に該当することは明らかであり、原告らの教員としての地位を違法に侵害したものであるから、被告は本件各処分の事務の帰属する公共団体として国家賠償法一条一項により原告らに対し後記の損害を賠償する責任がある。

六  原告らの損害

市教委の本件各処分が長期間にわたって継続されたことは既に述べたとおりであり、その間原告らは授業の担任を外され、教員の本来の任務に従事することができず、原告らが受けた精神的損害は極めて大きいものと認められ、本件各処分に至る経緯、原告らに対する処分の数、その他諸般の事情を考慮すると、原告木下、同玉石の精神的損害は各金一五〇万円、その余の原告らのそれは各金一二〇万円と認めるのが相当であり、原告らが本件訴訟の遂行を弁護士戸谷茂樹ら本件原告ら訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであり、本件訴訟の性質、内容、遂行の難易、請求認容額等諸般の事情を考慮すると、被告が負担すべき弁護士費用は各原告につきいずれも金一五万円をもって相当というべきである。

七  結論

以上のとおり、被告は、原告木下及び同玉石に対しいずれも金一六五万円、その余の各原告に対しいずれも金一三五万円並びに右各金員に対する本件各処分の後である昭和五二年六月一一日から支払ずみまでいずれも民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、原告らの本訴各請求は右の限度で理由があるから認容することとし、その余の部分は失当として棄却し、訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余は原告らの負担とし、なお、仮執行の宣言については相当でないから付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上田次郎 裁判官 安斎隆 裁判官上垣猛は転勤のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 上田次郎)

〈以下省略〉

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